なごり雪
2002/11/29
昔は買ってきたレコードやCDをそれは熱心に聴いていた。歌詞は殆ど覚えていたし、その歌手が出ている雑誌も買って読んでいた。それなのに、今はあまりCDも新しく買わなくなった。久しぶりに買ったと思っても、一、二度聴いてそれきりということがよくある。
音楽を全く聴かなくなったわけではなく、昔買ったCDをMP3にして休日の昼間に流していたりする。が、新しい巨躯を聴いて楽しむことが無くなった。
最近買いたいなあと思うCDはいるかの「なごり雪」である。しみじみとする。
ビリヤード
2002/11/23
ビリヤードを真剣にやり始めて都合2年になる。それ以前にやっていたビリヤードは趣味のための趣味であった。それを通じて様々な人と知り合うことが出来た。いまはビリヤードそのものを楽しんでいる。
絶対に勝ちたいと思うのなら、一球に途方もない集中力を注がなくてはいけない。ポケットするにしろ、セーフティをするにしろ、必ず「確信」を抱いて撞かなくてはならない。
ポケットしたい、そのためにこの狙いでいいのか、ネクストを取るためにはこの力加減、撞点で間違いないか。自分自身に問いを投げかける。ワンマンスポーツだから、すべての責任を自分が負う。ぎりぎりまで問い詰める。結果はそれほど大切ではない。過程において出来る限りのことをなし、挑戦する。そうして取りきったときの快楽は麻薬的なものである。
しかしハイレベルな集中の意識の持続により、どっぷりと疲れる。だから仕事で疲れたときはあまり宜しい結果にならないことがしばしである。
関連性理論2
2002/11/22
例としてあげた会話がまずかったかしらん。では例えば、問いかけのほう、「コーヒー要る?」という会話はどうだろう。純粋な質問か、反語か。これは状況や環境との係わり合い無しには、疑問を発した者の真意を理解することは難しい。そういう省略、節約が人間の会話には存在する。また、答えにしたところで、実際の人間の会話において返答がただのYES/NOというケースは殆ど無い。この理論は、あくまでも現実に、日常の会話で存在する真理というものなのです。
なんにしろこの考え方はまだ発表されて7,8年ほどであり、一線の教授や助手達が原書(とても難しい英語らしいですが)を訳し研究しているのであります。小生はそれを酒の席で聞いてただ受け売りしておるわけですので、難しい質問は止めたほうが俺の脳のためであります。
それにしても、そのコマーシャルで耳にした歌は、産まれたところや皮膚や目の色以外で自分を分かってもらえる何かを持っているのかという問いかけに聞こえる訳であります。
爪の伸びるが如く
2002/11/18
死に物狂いで記憶をたどったのは何年ぶりだろう。いやこんなに頑張って思い出すことをした経験は無い。しかもこんなにくだらないことで。そのシナプスが連結する有様はまるで、2cm先にあるりんごに手が届かなくて、必至にじっと我慢して爪の伸びるのを待ち、そして手にしたようだった。
俺がショウタイムを見たのは、日本へ帰るときに乗った飛行機の上だった。
デジャビュ
2002/11/17
じつは昨日の話にかんしてすでに文章を書き、掲載していたのだが、ちょっと不思議に思うことがあるので書き直すことにする。現在、映画館で上演されている「ショウタイム」という映画がある。ロバート・デニーロとエディ・マーフィーの警官ものである。いま、CMでも放送されている。
このCMを見て、俺は民放テレビの映画放送の宣伝だと思っていた。というのも、俺はこの映画を一度見たことがあるからだ、それもテレビで!いったいどういうことだろう?
すでに公開されている映画なので、いまさら何を言っても俺が事前に見て内容を知っている証拠にはならない。しかし俺はこの映画の公開日の前から映画館には足を運んでいない。にもかかわらず、デニーロの趣味が陶芸だとか、その部屋が女ディレクターの手で勝手に模様替えされたとか、ディスコの二階で悪のボスらと乱闘になったとか、車のボンネットを滑るようにしたら銃で傷がついたとか、結末は上の階から水が溢れて、流れて、外に流れ出るが手錠が引っかかって助かるというシーンを覚えている。
なにかのビデオの予告編を見たのかとも思ったが、それにしてはつまらないシーンも覚えているし、最後の最後の場面は通常予告編には無いものだから、それもおかしい。
デジャビュというにはあまりにも恐ろしい体験である。
関連性理論
2002/11/16
言語学者のスペルベルによれば、人間の会話には'relevance'(関連性)という重要な要素がある。たとえば、「コーヒーはいかが?」という問いに対して、「コーヒーを飲むと目が醒めますよね。」という答えには、肯定と否定の二つの意味のどちらにも取ることが可能である。その答えを決定するのはたとえば時間との関連性である。夜の9時、就寝前に聞いたとき、この答えはNOである。徹夜仕事や朝尋ねたときはYESという具合である。
これはこの関連性は人間が言葉をより少ない労力、すなわち単純化、洗練化された様式で使用することから生じる。
ところで、会話ではないが、たとえば「黒」は穢れた、「白」は純潔なという関連性がある。この関連性の原因の答えはとても難しいものである。なんとなくこれは汚れというものの色に関係があるのかと思う。
なぜこういうことを思ったかというと、何かのCMでそういう歌が流れてたのを耳にしたからである。
バランシン
2002/11/14
本日、とある人よりバレエのビデオを借りて見た。バレエは舞台で5回、VTRでは20回ほど見ているのだけれど、今日見たバレエはいわゆる「プロットレス・バレエ」というもので、クラシックバレエからストーリーを除いた、純粋な舞踏としてバランシンという人が始めた踊りである。
こういうバレエは振付師の力量が本当に問われる。踊りを見て何かを考えさせるような抽象的純粋舞踏では全然駄目である。その動きに圧倒され、言語を超えた音楽的な何かを感じられるような踊りでなくてはならない。生半可な振付師がやると、退屈で目も当てられないものとなる。
今日見たバランシンの作品は本当に素晴らしいものだった。舞踏においてストーリーは踊りの表現力にプラスアルファを与えるが、逆にそのストーリーによって表現の制限があるとも言える。しかしストーリーの無い、最高の舞踏の場合はその制限が無くなり、とてつもないスケール感を醸し出す。
それはDNA/RNAの自己複写のようであり、根を伸ばす木のようであり、大海を泳ぐ魚のようであり、強風吹き付ける嵐のようであった。すなわち、宇宙を感じさせるようなものであった。
感受性の海
2002/11/09
映画「キリング・フィールド」や井上恭介著「なぜ同胞を殺したか」を紹介したが、実際に見たり読んだりした奴はいるのだろうか。強制的に見させようという気持ちはこれっぽちもないが、そうしないのは実に勿体無いと思う。俺は友人等にそういうことをむしろ自ら尋ね、自分自身にありながらまだ自らも知らない感受性の海に灯りを差し当てたいと常々考えている。
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