シンガポールの友人
2003/05/27
先日シンガポールから一時帰国した友達夫婦とメシを喰いに行った。あの例のラボンダンスである。ここはフォアグラを使った料理がイケてる店である。して小生は迷うことなくフォアグラのソテーを注文したのだが、かつてベトナムのLe Bordeaux (ル・ボルドー)で食らったソテーに比べると、味は負けていないが、量は4分の1程度である。やっぱり欧米人はあれぐらい食うから何かとエネルギッシュで、プラグマティズムなんていう主義も産まれるんだと確信した小生であります。
この店はギャルソンがしっかりしていて、ああこれならサービス料を取られても仕方が無いと思わせられるレベルであります。まあ若干硬いので、もうちょっとこう笑顔っていうか砕けた感じでジョークの一つも飛ばせばベターじゃないかと思われます。
さてシンガポールは例のSARSの影響で、観光客がやはり減っていて、いろんな旅行関係の施設が軒並みプライスダウンしているそうである。そこで逆にこの機会に、あの小説にもなったラッフルズホテルに泊まってみたいなと思う、肺炎くそっ食らえな小生であります。
サービス業における変化
2003/05/25
つまり俺が言いたかったのは、サービス業というものが変化を考えるときというのは、客の潜在的な要望が確信をもって捕らえられたときであって、決して自己満足のために変化するべきではないということだ。
潜在的な要望というものはまた、それが満たされていない時に激しく表面化するものである。つまり顧客の不満というものは潜在的な要望でもある。
したがって、それに対して動揺し反抗的になってはならない。素直に謝罪する心を伝え、また要望を正確に把握する。それさえ出来れば、顧客の要望、ニーズを正確に把握できる絶好の機会である。
悲しき酒場
2003/05/21
変わらないと言うことは、そんなに難しいものだろうか。
なにか池袋で飲むとよく行くバーがあったのだが、そこにソフトダーツが置かれていてびっくりした。安っぽいモニターが陳腐な光を放っていた。客がこの店にそんなものを求めているとは到底思えない。普通に静かに会話をしたいと思って来店する客が、少なくとも俺はそうなのだが、ダーツで騒がれてしまったら、どういった気持ちになるだろう。
またそのソフトダーツを設置した人間を知っていて、まあ仲は良くない(俺にも仲の良くない人間はいる)のだが、そのことが余計に俺に悪態をつかせたのかもしれない。正直に告白するが、俺は「この店でダーツを遊ぶ人はいますか?」と若い店員に尋ねた。「ええ、結構皆さんやりますよ、宜しかったらどうぞ」と店員は答えた。俺は「いや結構」と答えた。また、テーブルでダーツについてさらに非難を加えた。店にとっては余計なお世話かもしれないが、個人的な怨恨はさておき、そうやってダーツを置くことで離れていく客の代表としてそのリスクを体現したつもりだった。
そうして反感を買ってしまったのか、それともただ何かの間違いで作ってしまったのか(その方が宜しくないが)次に頼んだカクテルがとんでもない味がした。俺はそういう事態を黙って見過ごせない性格である。普通の味覚を持っていれば作れないし飲めないカクテルだ、と 速やかに叱責をする。するとマスターが意思の疎通がうまくいかずに申し訳ない云々と言う。それで作り直してくれるかと思えばそのまま反抗的な目つきで奥に下がってしまった。そのカクテルの理由がなんであれ、俺はなんだか絶望的な気分になって店を出た。
女以外にこういう風なやるせない別れ方をしてしまったのはこれが初めてである。
LAコンフィデンシャル
2003/05/18
三島由紀夫の豊饒の海のシリーズ、一巻がずっと貸し出し中になっている。仕方が無いので、次に読みたかったジェイムズ・エルロイのLAコンフィデンシャルを先に読む。和訳のレベルが低いので、読みやすいとはいえないけれど、作品の面白さとしては文句のつけようが無い。
一つの物語を作り、それを分解することによってミステリーは産まれる。俺はそう考えている。その分解の仕方において、LAコンフィデンシャルは完璧かと言われればそうではなく、都合のいい登場人物が二人いる。しかし、もとの一つの話が面白いので、十分に楽しめる。
この作者は若い時分には暴れん坊で、かつまた母親が何者かに惨殺されると言うとてもハードボイルドな人生である。その経験を作品に反映させるというのは、強靭な精神力が無ければ出来ないと思う。
映画も面白かったが、友人に言われたとおり、小説のほうがずっと面白かった。皆さんもぜひ読んでみるといいと思う。
与太議論 暴力について
2003/05/17
俺は友達とメーリングリストでメールの交換をやっている。大抵はどうでもいい下らない話だが、たまに与太議論をする。その議論も大したものではないだろうが、やってる本人達は頑張って自分の考えを発表しているのだから、少なくとも自己満足は味わっている。
さて、つい最近はまた暴力をテーマにした漫画についての話が合った。要点を話すと、とにかく俺は暴力の悲惨さ凄惨さ孤独さを描けないような作品には何の価値もないと言った。
バカボンドにはそれがある。顔に死ぬほど深い傷を負ったり腸が飛び出たり、片腕が落ちたりする。失われて二度と戻ってこない肉体の喪失とその恐怖がある。また誰も家族(つまり守るべき利益)を持ちえない。まさに純粋な力の世界に存在してる。何も持つことが出来ないという、絶望的に悲しい代償と、孤独を背負って。これが暴力の本質だ。それが描けていない作品には何の魅力も感じない。
俺の友人は感覚的に面白い、楽しいと感じる作品であればそれでも十分だと言う。
ま、ようはリアリティね。これを求めるかどうかで、面白いかそうでないかが分かれたと思う。俺は漫画にリアリティを求めてなくて、だから***の思うような面白くなさは感じなかった。
で、この続きがどうなったかと言うと、
作品に何を求めるか、という話はひとまず終えて、次に言葉について。
英語の歌を聴いて、意味も分からず、しかし何か感じた経験から、言葉を超えるものは確かにあると思う。しかし自分が何か感じたときに、言葉にしておくのは大切なことだ。感情と言葉、その融合されたものは将来の自分の「感性」として養われる物のような気がする。
フィーリングが欠けていたら言葉だけの虚しい記録に過ぎず、言葉が欠けていたら感情だけの虚しい記憶に過ぎず、つまり、どちらが欠けていても感性は育たない。そんな気がする。
この話がいつ果てるのかは分からないが、ともかく、我ながら最後のフレーズが気に入っている。
仙台のお土産
2003/05/14
仙台へ旅行に行った友人からお土産を頂戴した。いのちという日本酒(大吟醸)とタン塩である。大吟醸であるから、香りがとても強い。肴を食べながら飲むような酒ではない。つまり小生としては美味しいが好みではない。そもそも第一が七千円もする高級品は勿体無くて腰が引けて仕方が無い。風呂上りにちびりちびりと飲んでいた。高級なデザートのごとき日本酒である。
タン塩のほうは値段は安いらしいが、厚く柔らかくてとても美味しかった。仙台の人はこんな美味いものを毎日食っているかと思うと、謂れの無いジェラシーを感じる。
ビバ仙台。まだ行った事ねえが。
問うというコミュニケーション
2003/05/13
インターネットを使い始めて、まじでくそ便利になった。何か調べてアタリがまったく無いってことは殆ど無い。インドネシアの社会主義者も調べられる。歯医者の施術方法も分かる。これだけ容易に、かつ遍く知識が得られるとなると、物知りや記憶力が良いっていう誉め言葉がそのうち無くなるはずだと思う。
ところで、もうずうっと昔、ドグマって言葉の意味が分からなかった。語感からして、怒った熊を想像した。なんだか猛々しいなあと思った。俺はどうしてもその日のうちに言葉の意味が知りたくなって、女友達に電話して辞書を引かさせて調べてもらった。教条、と言われたので、キョウジョウって何って尋ねたら教義と言われたので、それじゃあ何も説明になってないよと拗ねた。変な人ね、ウフフと電話口から聞こえる女の声が妙に色っぽかった。
何でも自分で調べられるインターネットは便利だが、そういう微妙に感情が色づく事態が、もとい、分からないことを人に尋ねるときのコミュニケーションチャンスが減ってしまうのは、寂しいようにも思う。
さてまた、他人がその人に的確に教えることが出来る、教えの請い方も、ひとつの能力だと、俺は思う。それは質問が的確であると言うことだからだ。
明晰夢
2003/05/11
明晰夢というものがある。ちょっとしたトレーニングによって、夢を自在にコントロールすることである。
どうやってコントロールするか。例えば夢の内容を書き出して記録する。また夢を見ていると気が付いたときに、夢の中で自分の手を上げるという特定のサインを行えるようにする、というものであるようだ。それ以上の詳細はよく知らないが、こういったことで夢の内容をコントロールすることが出来るらしい。
人にもよるとおもうが、寂しい夢を見た朝は何となく沈鬱な気分になったりするものだから、夢はただの虚構として片付けられない。夢は、その体験中、かなりリアリティがある。
だから夢をコントロールすると人間のさまざまな欲求がかなり満たされるのではないかと思う。お金持ちになりたい。権力者になりたい。美男美女と乳繰り合いたい。空を飛びたい。異国に行きたい。美食を極めたい。
ランプを必死にこすったり、星球を集めたりしなくても、それらの願いは叶うのである。しかも「たった一つの望みは無限に望みをかなえることだ」という、矛盾に対するセコッちい憂慮も一切無しである。
そうなるとつまり、最高の快楽である。
ただし夢には感動の要素が薄いかもしれん、と思う。新しい事象や知識を発見することは夢だけでは出来ないから、それに伴う感動は生じない。夢を見る人が音楽の才能があれば夢の中で新しい音楽を作曲できるかもしれないが、音楽の才能が無い人には不可能である。したがって、知識や才能の無いものは作れないのだから、それを味わうことも出来ない。畢竟、夢の中で、素晴らしい音楽に対する感動が産まれることは無い。しかし現実の世界では誰かが作った、演奏した音楽を聞いて感動することが出来る。
そう考えると、生きるということはつまりまったく未知なるものに出会ったときの感動っつうことになるのではないのかしらん。
サクラの写真
2003/05/09
春にサクラを撮った写真。

春には写真をうんと撮るぜなんて意気込んでみたが、百枚ぐらいしか撮ってなかった。そうなると、自分が気に入った写真は5枚程度である。しかもサクラなんて誰が撮ってもそんなに変り映えしないんじゃないかと思う。うんと考えて、水面に映ったサクラを撮ってみたのがせいぜいである。
まあどの写真が気に入ったか言ってもらえると、自分との感性の違いが分かったりして面白いかもしれないと、密やかに期待している。
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