雑感
2003/09/30
高級なブランドの大きな鞄に特注で車輪をつけてもらったと自慢する人を雑誌で見た。そもそもブランドの大きな鞄を買い求める人は自分では持たないからそんなものは要らないのではないだろうか。ブランドの限定品を求めて早朝から地べたに座る人も同じく、彼らは自らそのブランドの気位に糞を塗って胆汁の汚臭を撒き散らすようにその商品を持ち歩くつもりなのだろうか。
人が一番知らない人間の姿は自分の姿に違いない。だから色んな物差しが欲しくなる。形あるもの、お金で替えられるものは全て、ときには感情を測る物差しですら他に求める。
totoについてのアンケートをお願いします、とわざわざ自宅に調査員が来た。お金でしか動かない人たちが集まるとこういう下劣なことを企むから嫌になる。不安と暴力についてのアンケートをお願いに来る調査員はいないのかな。来たらお茶でも馳走して差し上げたい。
理屈や対話はもちろん欠かせないものだけれど、それらですべての物事や感情の収まりがつくはずが無いと思う。収まりのつかない物事や感情が生じた時に、どうやってそれに処するかを学ぶことは大切だ。
実際の感覚
2003/09/25
暴力というのが幹だとするならば恐怖はその根っこで、人種差別とか戦争とか言うのはその葉だ。そんなことは修辞学を習う前の学生でも喩えるに能う比喩ではあるが、これを実際の感覚で伝えた人は少ない。
小生の知る限りでは、下宿を借りるときに在日韓国人という理由で断られた人間が「なに、亡霊に憑かれた人間には同情するしかないさ」と答えて以来、二人と居なかった。
Bowling for columbineはそれ以来ただ一つの慧眼であるかもしれない。
測量
2003/09/22
Bowling for Columbineを見て、いたく感心はしたのだけれど、まだ何か書くほどには至らない。好きとか面白いとかそういう原始的な表現のまま受けた感動を漠然とさせておくのは動物でも出切ることだから、俺はそうしたくない。
確かにそれには時間もかかるし楽な活動ではない。だから人の意見も一寸伺ってみたくなるが、まず始めはなるだけ過去から積み上げた自分という物差しで測ってみようと心がけている。
人には理屈っぽいだとか何を思われようが、その測量をもって感動の源を探りにいき、そこにある自分の姿をみてみたいと思う。
Bowling for Columbineは恐怖心を扱った映画であるけれど、その恐怖に支配されないためには、原始的な感情に対する耐えざる問いかけが有効であるとも思う。
思考の発酵
2003/09/21
二三日書くのを止めていたのは、書きたいと思う事柄について考えが纏まらないからである。そういう時は走り書きのような形で纏めないままにしておいて、そのまま放っておく事にしている。時間が経ってから再び書き出すこともあるし、そのまま腐って無くなる事も多い。そのほかにも、たとえアクセスがよほど少ないサイトでも公開するのにためらわれるような内容もあったりする。
ここでしか小生に触れない人には毎日二三度更新したってまだ小生の姿を表すには足りないと思うが、実際に小生に会う人たちもいて、彼らと会ったときに話す事柄が無くて困ったりもするから、そういうときに話すネタとしてそれらの内容はこのままハードディスクに埋めておくほうが良いと思う。
しかし小生はただでさえ少ない記憶領域を無駄に浪費して生きてきてしまったので、いざ実際に会うと、容量不足でハードディスクから脳に転送できていないか、転送途中でファイルが壊れてしまっていることも多々あり、それには我ながら閉口する。
しからばノートパソコンを脇において会話をする、というようなことはやはり失礼だろうか、などと思う。でも、他人の日記を見て話をするような感じで、小生は自分自身の恥というものを感じずに、また相手にも遠慮を与えずに、会話が盛り上がるような気もするのである。
ところでやっとボウリングフォーコロンバインを見た。
乗蓮寺
2003/09/20
三連休の最後に、下赤塚に大仏を見に行った。以前に二度も足を運んだが、閉門時刻が午後4時であるためにぎりぎり間に合わず涙を飲んだ。
三度目の正直で見た大仏は想像よりも大きくて、存在感があった。寺自体はこじんまりとしていたが、清潔で、木々や草花の配置も綺麗であり、また三途の川から冥府に至るまでにいる鬼人たちの石像(津藩から寄贈されたものである)が趣深く配置されていて、良い寺院だと感じた。また、初秋の落日が境内に煙る線香の霞を射る様子には心静かに感動した。
写真を撮ろうと思って一眼とデジカメを持っていった。
一眼にはモノクロフィルムと、モノクロ用のイエローフィルターをつけて撮影した。ついでに隣にあった区営の植物園を散策して、その場所でも何枚か撮った。出来上がりが非常に楽しみである。
一眼を使うとどうしてもデジカメの操作性の悪さが目に付いて、買ったばかりなのにもう残念に思った。一眼のデジタルカメラを本気で買おうかと思ってる。
類型
2003/09/14
レンタルビデオ店に赴いて、目当てのタイトルが貸し出し中であると、小生の殆どの場合は別のタイトルを借りてしまう。借りた別のタイトルがたまたま感動的な作品であったことは残念ながらあまり無い。がともかくレンタルビデオ店にとっては小生のようなタイプはまさに格好の獲物であることは間違いない。
そういったわけで、ボウリングフォーコロンバインを借りられずに仕方なくレッド・ドラゴンを借りてみた。幼年期・少年期に悲惨な環境に育った人間の狂気というのは、もはや珍しい設定ではない。物語の設定としてだけでなく、現実にそういう人間が引き起こす犯罪も増えた。が、しかし思ってたよりも結構面白く観られた。エドワード・ノートンよりも、アンソニー・ホプキンスよりも、犯罪者役のレイフ・ファインズが目立つ映画だった。
それからやっと図書館に三島由紀夫の豊饒の海 第一巻が戻ってきたので、借りた。三日ほどで読んだが、この作品が一巻で終わるものであったら、他の作品に比べてそれほど面白くないと思った。主人公である松枝清顕が、違う作品で登場した人物の、影の薄い類型としか感じられないからである。しかし四巻全てを読んでみるまでは、まだ何ともいえない。
ギャンブル その二
2003/09/10
さてギャンブルに壮絶にのめり込んだ有名人というと、小生はドストエフスキーが思い浮かぶ。この人の、のめり込み方は中途半端なものではなくて、なにせ新婚旅行で、結婚した女性の宝石から衣服から全て質に入れてルーレットをするのである。さらに賭博先で出会った他の作家からも金を借りる。挙句に帰りの汽車賃すらも使ってしまったほどである。
しかも性質の悪いことに、ギャンブルで負けて帰ってくるたびにもう二度とギャンブルは致しません、天から使わされた私の聖母(奥さんのこと)よどうぞお許しくださいといって号泣して膝にすがりつくのである。そうしておいて、奥さんが優しい言葉をかけると、また懲りずに、必ず勝つ方法を見つけた!と言って質屋に出かけて金をつまんではルーレットをやりに行く。
雑誌の編集者にも、作品を書く約束で金を借りるし、シベリアに投獄された時からずっと親切にしてくれている青年貴族からも金を借りまくる。もしドストエフスキーが「賭博者」を書かなければ、行き当たりの無い馬鹿であった、と小生は冷静にそう思う。
さて最近、このドストエフスキー級というか、それを超えているかもしれない人物に出会った。彼は某国の会社社長の子息であるが、麻雀に負けて借金を3000万円作ったらしい。親にその負債が知れ、親が肩代わりをしたというのも凄い話であるが、頭に来た親がしばらく外国に行って頭を冷やせと日本に送り、月50万円からの仕送りをしているというのも馬鹿みたいな話である。
まだあまり日本語は出来ないので、中国語を流暢に使う友人を介して話すのだが、金銭感覚というか、人生感覚がブッ飛んでいることは十分に伝わる。また3000万円というのが本当かどうかは知らないが、少なくともギャンブルが好きで、ギャンブルとは何か、というものを良く知っているように思わせられる。
もしこの人に文筆の才があったら、面白いものが書けると思う。一か、八かという今までの博打物語ではなく、七か八かという観点から冷静にギャンブルを物語る作品になりそうである。
ギャンブル
2003/09/08
小生自信はめったにギャンブルというものをやらない。パチンコ、競馬は昔遊び程度にやったが、遊び程度なのでそのうちに飽きてやらなくなった。パチンコはボーッとしている時間が長い。せいぜい当りを念じたところで相手は機械である。よくいるオッサンどものように台に向かって脅したりすかしたりする気になれない。
競馬はシミュレーションをする余地があるのでまだマシである。時間も拘束されない。それに馬という存在が速さ一点のみで優劣を競う厳しさに、惹きつけられる。けれども、競走馬としての馬の寿命は長くないので、関わっていない期間ができるとすぐに見慣れぬ競走馬だらけになって、自然と足も遠のく。
あとはまれにロト6やTOTOをやるが、当たる気がしないし当てる気も無い。買っても1000円なのでギャンブルというよりおみくじに近い。
昔、学生時分、友達がパチンコやパチスロに執着していた。やっぱり負けて、大学に行く交通費を貸してくれという連絡を受けたことがあった。俺はあんまりアルバイトをしなかったので金に余裕は無かったが、古い馴染みだったので、5000円貸した。が、その友人は結局試験を受けに大学には行かなかった。それで俺は頭に来て、もうパチンコを止めるように言った。友人も同意して、一安心と思ったのもつかの間、やっぱりパチンコに遊びに行くところを別の友達が見かけて教えてくれた。俺は思わずウーンと唸り、後日飲みに行こうよと誘われたがお前と飲んで美味い酒は無い、と、それ以降その友人との付き合いを止めてしまった。
いま考えてみると、その友人の行動は、二十歳くらいの人間なら犯しうる過ちであって、親友として付き合っていた関係を絶つほどのことではないと思う。それにもっと別の方法で彼自身に得るものの無さを伝えられることが出来たような気もする。そもそも、一緒にパチンコで遊び、二人で大勝ちしてヒャアヒャア言っていた事もある小生が一方的に責めるのも筋が通っていない気もする。
が、いかんせん自分自身も二十歳くらいの人間であったから、仕方が無い。
ギャンブルというものを透かして二十歳くらいの人間というものを見れば、友人のように、自分に対する他者の思いを妙に軽んじたり、小生のように、物事を大げさに考え過ぎて器量の狭い行動をとったりする、過ちの多き年頃であると思う。
メディアとしての映画
2003/09/06
小生は2002年、映画を100本ほど見てました。ほとんどビデオです。よく映画は映画館で見ろなんてツウぶったことを言う御仁を目に耳にしますが、まったく理由がわかりません。
ピコピコ携帯電話を鳴らされたり、オシッコを我慢したりして何が楽しいのか。この半可通が、と叱りたい。しかしまあアクション映画なんかはズゴーンと腰が抜けるほどの低音や、ヒュンヒュンと頭の周りを掠める銃弾の風切り音なんかを味わえるから、そういうジャンルについてはある分正解であるとは思います。
ところでふと思ったのです。大抵のメディアというのは、広告によって制作費を得ております。したがってその広告の不利益になるような内容を報道したり製作したりオンエアーしたりすることは難しいのであります。
ですから国が経営するメディアなんかがわりとましな、良心的な内容を放送できるのですが、しかしテレビについていえば、これは簡単に誰もが見ることのできるメディアですので、例えばエロを求道する人間を素材とした人間表現を放送するなんかは不可能であります。微エロな場面で家庭の食卓の箸が空中で彷徨う、あの永遠とも感じられる瞬間が生じることでさえ望ましくないのです。
要するに殆どのメディアにおいては、多かれ少なかれ、表現や内容が完全に自由でありえるかというと、そうではない。
それに比べると映画というのは、主な利益を、観客の支払う料金で賄っております。また特定の期間・場所で催されます。その二つを考えると、内容および表現という点でかなり自由なメディアだといえるのです。
なのでもっと過激な内容のドキュメント的な映画があってもいいと思いますし、そういうことが可能なメディアだと思います。シンデレラストーリーやアニメなんかは映画ではなくとも製作できるのです。
さしずめ今ならピュリッツアー賞を取った、カトリック教会の聖職者のスキャンダル作品なんか、映画として製作・上映してほしいなあと思いますし、また「ボウリング・フォー・コロンバイン」なんかはその小生の考えにたいする一つの答えとなる映画であると思います。
ボウリングフォーコロンバインはDVDでもレンタル・発売されているので、ぜひ見てみましょう。
映画 「宮本武蔵」
2003/09/03
中村錦之助主演、内田吐夢監督の映画、「宮本武蔵」を見ている。実に38年前の映画である。当時はお正月映画として、五年にわたり毎年一本公開されていた。そしてつい半年ほど前に、その5本がセットになってDVDにて販売されはじめたのである。
原作は吉川栄治。あの「バカボンド」と同じ原作である。ただし描き方は随分と違う。
漫画が武道家の孤独な内面を重視した描き方なのに対して、こちらは武蔵の優しさや明るさ、男らしさなど、人間らしさを感じさせる描き方である。どちらも面白いけれど、映画は時代を感じさせないほどに面白い。このDVDはレンタルされておらず、五巻セットで25000円もするが機会があったらぜひ見て欲しい。ひょっとすると両親くらいは当時の少年であるかもしれないからねだってみるのもまた宜しい。ちなみに小次郎は若き高倉健。
ところで映画を見ていると、なぜ漫画の方が内面を重視したシリアスな内容になっているのかという理由が分かるような気がする。おそらく井上雄彦はかなり映画に影響を受けているであろう。それは、漫画の中に登場する沢庵や本位田の婆、又八、柳生石舟斎が映画の人物に驚くほど似ているからである。だが、この映画に影響を受けたのであればこそ、フォーカスする内容(同じ原作であるから、描き方、視点と言える)は変えたいと思ったのではないだろうか。
ともかく、映画、漫画と読んで当然のように原作を見てみようという気になった。
人間とは多価値で量られる生き物である。にもかかわらず「勝負」のように優劣をある一点だけで求める人間は情熱的であり、残酷であり、孤独であり、快楽を知る人である。そういう人間の像が描かれていれば良いなァという期待をもって、本屋に出向いてみようと思う。
評価:★★★★☆
世界陸上
2003/09/01
昨日陸上世界大会をテレビで見ていた。ちょうど女子の棒高跳びをやっていた。
研ぎ澄まされた肉体という刃が、集中する心が放つ青白い炎に照らされて、ぎらりと光る。
その刃を携えて人は、今という名前の重い暗闇の帳を切り裂きにかかる。
その帳の向こうにあるのは未来。清潔で真っ白で眩しい光の満ちた世界。切り裂かれた帳から光は光速で侵入し全てを光で満たす。そしてその中で爆発する肉体。
刹那の歓喜と悲哀を携えて、選手はそこに立つ。
これこそスポーツである。と思った。
さてところで、こういったスポーツに関してもっとも叙情的で美しい文章がある。小林秀雄の「オリンピア」である。一見して難しい文章だなァと思われるかもしれないが、そのシンドサを乗り越えてなんとしても呼んで欲しい。
感動を約束する。
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