自衛隊派遣
2003/11/26
防衛庁長官が、「イラクの復興は世界の皆さんがやってください。(治安安定後の)石油の権益は優先的にください、というような話は国際社会に通用しますか。(しないでしょう、だから自衛隊を派遣します)」というようなことを述べていた。
この部分だけを聞いたのだが、かなり違和感を覚えた。派遣の本当の理由は、石油の権益を得るという経済的なものなのか。
その権益が得られるとして、日本にテロが起こる可能性が増大したならば、自衛隊は国家を危険に曝すために派遣されることになる。これはちょっと矛盾しておるのではないだろうか。
もしも、日本は資源の無い国だから、危険を冒しても資源を獲得しなければならない、などと考えているとしたら、それはかつての満州覇権の考え方とよく似ているようにおもえる。その意味でもあの発言は不快だった。
まあ経済的な理由だけの派遣ではない、真にイラクの復興を望むということが大儀だとしたらまだマシであるが、外務省にそんな男気は無いだろう。だいたい、男気を満載して、歓迎されるどころか攻撃の対象とされるような間抜けな行為を支持するような国民がおるわけがない。
何のために?いつまで?そして、なぜ自衛隊でなければいけないのか?
今一度、この答えを用意して欲しい。さもなくば、派遣には絶対反対である。所詮アメリカ無しでは国の活動もろくにまわらないショボイ国であるように思えてしまうから。
Perl
2003/11/24
Perlというプログラムをボチボチと学習している。まだ初めて数日なので、全く大したことは出来ない。判別したい数字を書き込んで、素数かどうか判定したり、ヘロンの公式で解を出したり、ファイルの内容をソートしたりするくらいである。
それでもなかなか楽しい。参考書のある項目と項目を合体させたようなものを試行錯誤しながらやってみる。上手にいって、画面にプリントされるとまるでコンピューターに誉められているような気がする。CPUが1ギガを越えた頃から、すでにコンピューターを先生と呼ぶ覚悟の決めた小生にとっては。
今はインターネットに山ほどPerlのCGIがある。それらのプログラムの仕組みを漠然と推測して、よく考えたものだなあ、と感心してばかりである。それらに並ぶものが作れるとは思わない。作るヒマも無い。本当に欲しいプログラムなら、アイデアとお金を出して作ってもらったほうが良いと思う。
それならどうして学習してみようかとおもったかというと、理由は三つある。一つは、CGIは(出力した)見た目がプログラムの処理と関わってる場合がけっこうあるので、CGIの見た目を変えたい時にも役に立つだろう、ということ。
二つめは例えば素数は定義はまだ何となく覚えているが、ではどういう式でそれを判別するかということは忘れている(または知らない)。そういうことが分かったりする数学の面白さがある。
しかしなんといっても、論理を学び構築するというのは、パズルを完成させるような楽しみがある。小生の如きは3ピースほどのパズルだが、幼児にはそれでも楽しかったりするのである。これが三つめである。
モグラと天道虫
2003/11/21
近頃冷え込みが厳しくなったが、寒風荒む中、夜道をトボトボとT食堂へ向かう。ご飯が無くなると店じまいだから、その前にお店に行かないと、あの素朴な定食は味わえない。あの手作り感に満ち溢れた定食。京都の惣菜、おばんざいが一時期流行したが、板橋たりとて決して負けてはいない、と思う。身内びいきかもしれんが。
T食堂へ入ると、ほとんど毎日来ているオヤジが今日も来ていた。そのオヤジはモグラに似ているので、モグラオヤジと呼んでいる。その向かいには別の常連らしきオヤジがいた。このオヤジは初めて見る。そこそこ良い感じに飲んでいるらしく、顔は天道虫のように赤い。
モグラオヤジが、お店のおばちゃんに林檎をおすそ分けしていた。すると天道虫が「あんたあケチだねえ」「本当にケチだぁね」とモグラに絡む。なにか林檎を3つあげてるその数が問題らしい。せっかくモグラは親切に林檎を分けているというのに。
ところでモグラは何時見ても食欲旺盛である。酒を飲みながらしっかりと肴を食べる。その後で、定食一人前をちゃんと平らげる。その日、モグラのオヤジはカツを頼んだ。そしてカツに醤油をかけた。そうすると天道虫がモグラに向かって、「ぃやめてよう、気持ち悪い。カツに醤油をかける法があるかよぅ。」とモグラに愚痴る。
モグラは、いや俺はソースがご飯にかかると食べられねえんだ、と弁解するが、天道虫は子供が母ちゃんに駄々をこねるように、「やめてくれよぅ、物には組み合わせってもんがあるだろうよぅ」と繰り返す。
そんな横柄な天道虫ではあるが、昼間に買い物をした何かを、受け取り忘れてきたらしい。レシートは、とおばさんとモグラに聞かれたが、レシートなんてえ面倒くさくって捨てちまったよう、と酔った勢いもどこへやら、消え入るような声で返事をしていた。
そういった二人の有様がとてもおかしくて、飯を食べた後も何とはなしに席を離れ難かった小生である。
俺の縄張り
2003/11/19
あまりに凄い男、ジョージ・ルーカスについて褒め称えようと思って何か書いたのだけれど、あまり文章になっていない。なので掲載できない。最近なんだか文章を書くのに疲れる。疲れるわりにはショボイものしか書けないので、さらに疲れる。悪循環である。
くわえて、枯渇寸前の、もとい、ハナから存在しないかもしれない創作能力を使う仕事が最近多く、息も絶え絶えである。以前、どこかの社長が人間が創造的な仕事をするのは、起きてから一時間だけしかできない。と言っていたが、そんな人でさえ一時間しか出来ないというのなら、小生のような人間は十分間できるかどうかも怪しい。
とにかくそういった状況であるから、IMEの誤変換にもいちいち腹が立つ。モチベーションという名の青菜に塩である。
腹が立つといえば、AppleのQuickTime最新版。インストール後、OSを起動すると同時に勝手に立ち上がる。このように自動起動するのはたいていスタートアップか、autoexe.batに記述されているかのどちらかだが、その両方対処しても駄目である。結局、タスクマネージャーでそれっぽいプログラムに目星をつけて、名前を変えた。以来起動してない。
俺が使ってるのはパーソナルコンピューターなんだから、その君主たるパースンの小生に断りも無く勝手に起動するのは無性に腹が立つ。しかもそのプログラムがタスクトレイに居座ってアイコンを表示させたりなんかすると、てめえは何を自己主張してやがんだとますます腹が立つ。プログラムの名前を変更して起動させないようにするのは根本的な対処ではないかもしらんが、とりあえず目障りなものがなくなっただけでも気分的にはマシである。
ただそういうのは、人によっては全く気にならないらしく、ある人のタスクトレイは何時見てもRealPlayerのアイコンがちかちかしている。またその人のデスクトップはアイコンが死ぬほど散乱している。全然気にならないらしい。
小生はフォルダなんかもわりと整然としているのが好みである。もちろん全てを整理するのはかったるいが、整然としなくていいフォルダ、というものを作ってそこに乱雑にデータを入れて、見た目整然とさせた気にならないと気が済まない。
使う人の性格というものがけっこう出るもんである。パーソナルコンピューターという名も、なるほど、と思う。
映画 「Matrix Revolutions」
2003/11/16
先日の水曜日にMatrix Revolutionsを見に行った。わざわざTHX認定のホールを指定して見にいったのである。
THXというのはスター・ウォーズを作ったジョージ・ルーカスが、この映画館は俺の作った作品が上映されるにふさわしい音響施設である、と認めたいう意味である。とにかくまあ素晴らしく迫力のある音を愉しめるのである。
確かに音は凄かった。内容については、まだ見に行ってないG氏とかに怒られそうなので書きたくとも書けない。まあどちらかというと、こういうSF作品はシナリオの良さで評価するのではなくて、映像の凄さとか、漠然とした世界観を楽しむものであると思う。
もちろん、シナリオについて理解し難い点を探求(謎解き)してみたり、シナリオ自体の出来に注文つけたりすることも悪くない。実際それが楽しみの一つであり、Matrixの特徴の一つである。ただ、そういったことから映画自体の出来不出来を判断するのは間違っている。
例えば、シナリオという点だけから映画を評価してみると、とたんにどうしようも無い駄作になってしまう映画は山ほどある。こないだ書いたカウリスマキの映画などは5行で終わってしまう、つまらん映画になる。
映画は総合的に、感覚的に捉えて評価するものだ、と小生は思う。
それはそうと、現在のコンピューターはある方程式を与えられてそこから画像を作り出すことが可能である。つまり、あるアルゴリズムを与えられるという条件つきながらすでに創造するということの一部を可能にしている。
がしかし、本当に創造的な存在となるためには、方程式では解けぬ矛盾から何かを産み出さなければならない。
フットボールの試合で負けて激昂し、ボールを手で持って相手ゴールに猛然と走り出した。というような下らん行為から、新たにラグビーという素晴らしいスポーツを産みだしたというような。
そんなことを、Matrixを見た後にふと思ったのである。
映画 「真夜中の虹」「浮雲」
2003/11/15
アキ・カウリスマキの「真夜中の虹」「浮雲」を見た。
カウリスマキはとても特徴のある映画を撮る。少ない台詞、整った画面構成、クスリとする笑い...同様に、脚本にも特徴があって、監督の性格がよく出ている。
両作品は若干ハッピーなエンディングだが、基本的にはあまり好みではないようだ。彼はインタビューでこう述べている。
「結末については、ハッピーエンドにするしかありませんでした。 これはわたしが作った唯一のソーシャル・セラピー的な映画です。ただ本当は結末をもっと非情なものにしたいと思っていたので、納得がいかないという気持ちもありますが…」
とりあえず素直なオッサンではない。
まあ素直なオッサンなんて、よくイメージの湧かん言葉だが、引用したインタビューのページを見てもらえると、この性格がよりはっきりと分かると思う。
ただし見ているほうからすれば、彼の映画はどういう結末でも特に違和感はない。なぜか。それは只今考え中である。
ともあれ、眠たい時に見ると、さらに眠たくなる映画ではあるが、絵や音や脚本、総じてしみじみとした良さのある映画であるから、見てみると良いかもしれない。
書いたもの
2003/11/13
ファイルをバックアップした昔のCD-Rをたまに見ると、手紙やら、WEBに掲載していたコラムを見て、本当に絶望的な、暗澹たる気持ちになる。
手紙はやたらと感情がこもっていて、そんな感情を忘れた今となって読み返すと、いかに感情に酔っているかまざまざと見せつけられて死ぬほど恥ずかしい。コラムは、コラムというほど中身の無いものである。まあ中身が無いのは今でも相変わらずだから、仕方が無いとしても、文末に(笑)などと書いていながら、ちっとも面白くないのが何とも歯がゆく情けない。
小生はもともと深く考えて行動できる人間ではないから、日常生活においても、そのような下らない事をきっと沢山しでかしている。しかし、そのような行動派は特に記録されているわけではないから、自然と忘れてしまう。
一方、パソコンのデータファイルなどは非情にも克明に恥ずかしさを記録しており、それを開けば何時でも恥ずかしさが鮮明に復元される。これは辛い。辛いのだけど、たまにそれ目当てでCD-Rを取り出すのは、それを自戒の書として用いているからである。あるいは小生はただの辱められ中毒なのかもしれない。
ともかく、そんな風に冷酷に小生を辱める奴であっても相手がモノであるから、どうしようも出来ない。だから仕方が無い。しかし、これが人間だったら、何時までも人の恥ずかしかった出来事を憶えていて冷やかす嫌な奴ということになる。多分殴るだろう。
人付き合いでは、程よく思い出を忘却するくらいではないと駄目である。ということではないだろうか。
政策討論
2003/11/11
政策討論というのは聞いていて鬱陶しいが面白い。
確かに政策を築き主張する、その礎となるデータはあるが、データというのは見方によってどうとでも解釈できる。したがって、政策討論は、どちらかの意見が必ず正しいという結論など出やしないものだ。政治家は政策、つまりデータをどのように捉えるかについて主張し、聞き手、有権者はどちらの見方がより共感できるかを判断すればよい。
そんなことは政治家も十分承知しているのだろう。しかしそれにもかかわらず、いざ論議を始めると、熱くなるのかしらんが、なにかのパロディ、コメディ番組のようにギャンギャンとチワワのように吠えたくる。
これほど頭の良い人たちが真剣にコメディをやっている。そう見始めると、失礼ながら噴飯ものである。
ところで、自衛隊がイラクに派遣される。個人的にこれはドエライ事だと思う。それは海外派兵、過去の日本の武力侵攻復活の兆し・・・などと中・韓国が言っているような事ではない。アメリカに隷属的な武力しか持たない日本に、当時のようなことができるわけが無い。
小生が危惧しているのは、この派遣によって日本にテロの魔手が襲ってき、日本が戦争状態になってしまうことである。
いや、先日のニュースであったように、すでにテロ組織は日本に居たことを思えば、皆の知らぬうちに、既に戦争が始まっているのかもしれない。確かに大げさに考えすぎているのかもしれないが、そういう心持は小生に既に存在していて、またそういう視点から日本を見ると、どの人間を見ても、平和ボケじゃないのかという気がしているのである。
ブーニンのコンサート
2003/11/04
日曜日、六本木のサントリーホールにブーニンのコンサートを聴きに出かけた。ブーニンとは、祖父が音大の学長をやっていた音楽一家に育ったピアノのとても上手な人である。
それにしても、音楽というのは難しいなあ、と今更ながらに思った。
絵画にしても文学にしても、それを鑑賞する人には無限に近い自由な時間が与えられている。閉館するまでなら好きなだけその絵を眺めていられるし、すこし記憶の曖昧な段落を後から読み返すこともできる。
しかし音楽の演奏会というものは、そういう風には鑑賞できない。あくまでも経過する時間からは自由になれない。音楽がリズムや旋律を産む以上、そしてそれ無しでは成立しない以上は、仕方ないことであるが鑑賞の制限を与えられることには違いない。
この制限は、つまり、小生に以下の作業を強いる。流れる旋律、それを構成する膨大な音色の一つ一つ、これらを経過する時間に沿って記憶すること。しかし小生には不可能である。だから難しい。
せいぜい、演奏される曲目を事前に知っておいて、それらをCDやレコードで聴いて、旋律をしっかりと覚える。その記憶を一つの基準として、いざ演奏会に出かけなければ、良し悪しの感想を言うことも容易ではない。
そういう作業を怠ると、小生のように、ブーニンはタッチがとても大胆かつ繊細ですね、などとよく分かったような分からんような半可通的発言をしてしまうことになる。
しかしまあ音楽について、そういう訳の分からん解説をしてしまうのは小生だけではないようで、販売されていたプログラムに掲載された音楽評論家の寸評も、ごくごく平坦な形容詞に埋め尽くされていたのである。
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